大判例

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豊島簡易裁判所 昭和60年(ろ)95号 判決

主文

1  被告人を懲役六月に処する。

2  この裁判の確定した日から二年間右刑の執行を猶予する。

3  本件公訴事実中、被告人が昭和五九年八月二四日午後四時四〇分ころ、藤田和子から同人所有の現金二万四五〇〇円位及びがま口一個等六点在中の買物袋一個(時価合計九〇〇〇円相当)をひつたくり窃取したとの点については、被告人は無罪。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、

第一  昭和五九年八月一二日午後一〇時ころ、東京都豊島区南長崎五丁目二三番八号ひかり荘一〇五号高澤忠男方において、同人ほか一名所有の腕時計一個ほか一点(時価合計七〇〇〇円相当)を窃取し

第二  同年九月四日午前零時四七分ころ、同都練馬区旭丘一丁目四六番地スナック三湖店舗内において、小笠原光子所有の現金一万円を窃取したものである。

(証拠の標目)〈省略〉

(法令の適用)

被告人の判示各所為はいずれも刑法二三五条に該当し、右は同法四五条前段の併合罪であるから同法四七条本文、一〇条により犯情が重いと認められる判示第二の罪の刑に法定の加重をした刑期の範囲内で被告人を懲役六月に処し、情状により同法二五条一項を適用して、この裁判の確定した日から二年間右刑の執行を猶予することとする。

(弁護人の公訴権濫用の主張に対する判断)

弁護人は、本件追起訴(判示第一、第二の事実)は第一に、被害額は軽微であり、被告人には前科前歴がないから、起訴猶予にすべき事案であつて、担当検察官も弁護人の問合せに対し起訴しないと明言していた。それにもかかわらず起訴したのは、被告人が本起訴の事実(後記無罪となつた事件の公訴事実)を否認していることに対する意趣返しであり報復である。第二に、本起訴の事実の心証形成に関連性のない他事件の証拠をもつて影響を与えようとするものである。したがつて、本件追起訴は明らかに公訴提起が不当な他の目的に利用された場合ないし差別的起訴、可罰的違法性を欠く軽微事件の不当起訴に該当し、公訴権の濫用であり、公訴棄却されるべきである旨主張する。

そこで検討するに、検察官は現行法制の下では公訴提起するかしないかについて広範な裁量権を認められているのであつて、公訴の提起が検察官の裁量権の逸脱によるものであるからといつて直ちに無効となるものではない。もとより検察官の裁量権の逸脱が公訴の提起を無効ならしめる場合のありうることを否定することはできないが、それは例えば公訴の提起自体が職務犯罪を構成するような極限的な場合に限られるものと解すべきである(最高裁昭和五五年一二月一七日第一小法廷決定、刑集三四巻七号六七二頁参照)。これを本件追起訴についてみるに、取調べた諸証拠によれば、事案は決して軽微とはいえず、また、本件追起訴がその裁量権を逸脱して不当な他の目的に利用する意図でなされたとか、差別的起訴を窺わせるような事実も見出せない。まして、本件追起訴自体を無効とするような極限的な場合にあたる事情もとうてい認められないから、本件追起訴が適法であることは明らかである。弁護人の右主張は採用することはできない。

(一部無罪の判断)

一本件公訴事実(本起訴)は、「昭和五九年八月二四日午後四時四〇分ころ、東京都練馬区小竹町二丁目五二番地小竹荘前路上において、同所を自転車で進行中の藤田和子の左側から同人所有の現金二万四五〇〇円位及びがま口一個等六点在中の買物袋一個(時価合計九〇〇〇円相当)をひつたくり窃取したものである。」というものである。

よつて証拠により審理判断するに、〈証拠〉によると、藤田和子は、昭和五九年八月二四日午後四時四〇分ころ、買物に行くため自転車に乗り、自宅を出て直ぐ右横の十字路を右に曲り武蔵野音楽大学に向かつて約五〇メートル進行した東京都練馬区小竹町二丁目五二番地小竹荘前路上において、後から来た自転車に乗つた男に左横から右手で自転車の前篭に入れてあつた現金等の入つた買物袋をひつたくられ、五〇メートル位追つたが見失なつたこと、被害品の一部はその翌日同区栄町一八番地金津賀マンション北側駐車場植込み内から発見されたこと、以上の事実が認められ、本件公訴事実中被告人の犯行であること以外の事実については、その証明が十分である。

ところで本件記録によると、被告人は捜査段階では本件公訴事実を認める供述をしているが、第一回公判期日以降終始本件犯行を否認していることは明らかである。そして本件犯行が被告人の所為によるものとする直接証拠は、被告人の捜査段階における自白調書(被告人の検察官(昭和五九年一二月四日付)及び司法警察員(同年九月二二日付)に対する各供述調書、以下単に前者を「被告人の検面調書」後者を「被告人の員面調書」という)以外には存在しない。そこで以下自白の任意性、信用性について判断し、次いで被害者藤田和子が目撃した犯人像と被告人との比較、更には被告人のアリバイについて考察する。

二被告人の自白についての検討

1  被告人の自白の任意性について

弁護人は、被告人の員面調書の署名捺印は、取調べに当たつた安達警部補が被告人に対し「同調書に署名捺印をしなければ刑務所へ行かなければならない」、「署名捺印をすれば刑務所へ行かなくていい」、「お前がやつたんだろう、やつた証拠がある」などと言つて署名捺印を迫つたので、知恵遅れの被告人は、署名捺印をすれば刑務所へ行かないで済むと考え同警部補を信じてこれに応じたのである。このはじめの「署名捺印をしなければ刑務所へ行かせる」との言動は脅迫、強制であり、以下順に利益誘導、詐術である。また検面調書は、安達警部補が被告人に対し「検事の言うとおりにすればそれで済む」と言つて予め検察官の調べについて利益誘導と詐術をなし、検察官も取調べの冒頭において、送致書記載の六件の事件を読み「やつたのか」と発問したため、そのなかに実際に犯した判示第一及び第二の罪が含まれていて犯していない件と区別して答えられない被告人が「はい」と答えてしまい、本件ひつたくりの取調べに入つたところでこれを否定したが、一回認めたものを否定するのはおかしい警察でも署名捺印していると追及し、結局右調書も作られた。この発問は事件の区別の混乱をねらつたもので詐術であり、偽計である。したがつて以上の経過で作成された右各調書の自白は任意性がない旨主張し、被告人も公判廷において右主張に沿う供述をしている。

しかしながら、安達警部補は公判廷において証人として、被告人の取調べに際し、弁護人主張のようなことを言つたことはないと明確に否定しており、本件全証拠を精査しても被告人の取調べに当たつた検察官及び警察官が弁護人主張のような脅迫、強制、詐術等々をした事実ないしは被告人の自白が任意になされたものでないことなどを認めるに足りる証拠はないから、自白は任意になされたものと認めるのが相当である。

2  被告人の自白の信用性について

(一) 本件犯行を認め被告人の案内で引当りをしたとの供述について

被告人の員面調書によると、被告人は犯行を認め、警察官を本件犯行現場、及び賍品投棄場所へ案内した旨の供述がある。そこで被告人がそのような自白をするに至つた経過を検討し、次いでその自白部分の信用性を判断する。

(1) 自白するに至つた経過の検討

〈証拠〉によると、昭和五九年九月四日判示第二の罪で現行犯逮捕(以下単に「現行犯逮捕」という)された被告人が、練馬警察署に引致されて取調べを受けた際、余罪をほのめかしたことから、警察官は、同月二二日被告人を同署に呼出して改めてその余罪を取調べたところ、被告人は自発的にひつたくりを自白し、その旨の上申書を作成した。そこで警察官は、その自白が本当かどうか裏付けを取るため、被告人を署の車に同乗させ、同人の案内で犯行現場及び賍品投棄場所の引当り捜査を行い、帰署後刑事課記録係に保管してある手口別被害届綴のなかからひつたくり事件の被害届綴りを借り出して、引当りをした場所付近における被害発生の有無を調べたところ、本件被害届及びそれと一括して綴じてあつた遺留品発見届等の記載内容が被告人の指示したとおりであつたので、さつそく被害者を電話で呼出し、被告人が犯人に間違いないかどうか面通しをしてもらう一方、被告人に対し、犯行の動機、犯行時の服装、犯行状況、犯行後の状況等について取調べたところ、被告人が具体的に供述したので、自白の員面調書が作成されたものである旨述べている。

しかし、右供述中、警察官は、引当り後被害届を見て被告人が本件ひつたくりを犯したことを知り、被害者に面通しの連絡をとつたとする部分は、次の理由によりにわかに信用することはできない。

即ち、〈証拠〉によると、被告人は、九月四日現行犯逮捕され、同日練馬警察署で取調べを受けた際、赤色のジョギングパンツを着用していることに気付いた寺澤巡査部長から突然「お前が白のTシャツを着て江古田でひつたくりをやつたのか」とひつたくりについても尋問されたことが認められ、また、〈証拠〉によると、藤田和子は、警察から電話で「犯人が捕つたので明日来て見て下さい」という連絡を受け、翌九月二二日練馬警察署に出頭して被告人に対する面通しをした事実が認められる。そしてその電話は、被害届を見てかけたものであることは、証人寺澤英明が公判廷において、被害者の電話番号は引当り終了後被害届を見てわかつたと述べていることからも明らかである。したがつて、警察官は、九月四日の段階で本件被害届が出ていたことを知つていたこと、更には、面通しをした日の前日に被害届を見ていることからして、翌二二日の余罪取調べの際は、右被害届及びそれに一括して綴じてあつた藤田和子の員面調書や遺留品発見届等を見て犯行場所や犯行状況、賍品投棄場所等について予め相当の知識を得ていたものと推認するのが相当である。そうであれば、被告人が自発的に自白し、犯行現場等へ案内したとする点についても疑問が存するといわざるを得ない。

もつとも、〈証拠〉によると、寺澤巡査部長が被告人の赤色のジョギングパンツに気付いたのは、被告人の弁解録取書を取つた後に行つた身体捜検で、被告人がズボンを脱いだとき、その下に右パンツを履いているのを認めたからである。また、被告人に対し、ひつたくりのことを尋ねたのは、川口警ら係長から被告人の身柄を引継ぐ際、他にも友達の家から盗みやひつたくりをした余罪があるとの簡単な申し送りがあつたからで、本当かどうか聞いただけで当日はその取調べはしていない旨述べ、証人川口弘も公判廷において、当番責任者として現行犯逮捕された被告人の身柄を練馬警察署で受取つた際、被告人に対し「他に悪いことをしていないか」と尋ねたところ、被告人は「八月終りころ、江古田駅近くの商店街から買物帰りの自転車に乗つた女の人を後ろからつけて行つて前篭からハンドバッグのような物を盗んで逃げたり、友達のところからお金を盗んだことがある。」旨述べたが、寺澤巡査部長には先入観を与えないことと、供述拒否権を告げたうえで調べてもらいたかつたので身柄引継ぎの際簡単な申し送りをしたにとどめた旨述べている。

しかし、被告人が川口警ら係長に対し、右のようなことを自発的に述べたのであれば、同日取調べをした警察官に対しても同旨の供述をすると思われるのに、被告人の公判廷における供述によると、被告人は、前記寺澤巡査部長からひつたくりについて尋ねられたとき否定していることが認められるし、〈証拠〉によると、安達警察部補は、現行犯逮捕された被告人を同日取調べた際、余罪があると言つたが、ひつたくりの話は出なかつた旨述べている。また、本件被害者は買物に行く途中被害にあつているのであるから、被告人が犯人であればそのように述べると思われるのに、江古田駅近くの買物帰りをねらつたと全く逆のことを述べたというのも変である。したがつて以上によると、被告人が川口警ら係長に対しひつたくりの犯行を述べ、それを同係長が寺澤巡査部長に対し簡単に申し送りをしたとする〈証拠〉は、にわかに信用することができない。

(2) 自白部分の信用性について

本件は、前説示のとおり、被告人の取調べに当たつた警察官が九月四日の段階で被害届が出ていることを知つていたこと、更には九月二二日の余罪取調以前に被害届等を見て被害状況等を知悉していたことが推認されるから、いわゆる秘密の暴露(犯人しか知らない事項の自白で、捜査の結果客観的事実であることが確認された場合をいい、この場合の自白は真犯人しか述べ得ないものであるから高度の信用性があるとされる。)に当たるものはなく、被告人の自白が被害届等と一致しているというだけではその自白を直ちに信用することはできないのであつて、被告人自ら体験した事実を自らの記憶に基づいて供述したものであるとの心証を得てはじめて信用できるというべきである。

ところで、〈証拠〉によると、被告人は、知恵遅れ(精神薄弱)であり、中学時代は特殊学級の生徒であつたが、そのときの担任教諭で同学級の卒業生の指導に当つている三島照義に対し、弁護人側でひつたくりの実験を行つたという夜電話をして「先生取れたよ」と、実験時の自転車の速度はともかく、荷物が取れたことを嬉しそうに報告していることが認められる。これは恐らく、自転車を走らせながら並走する相手から荷物が取れたことがよほど嬉しく、このことを誰れかに話したい衝動から電話をしたものと思われる。被告人が真犯人であれば、知恵遅れとはいえこのような報告をすることは考え難く、このことと後記(二)ないし(四)の供述が同個所で指摘するように疑問や矛盾があることなど考え合わせると、被告人の自白は、被告人が自ら体験したことを述べたというよりは、前説示のとおり、被告人を犯人と疑い被害届等で犯行状況等を知悉していたと推認される警察官の尋問に、判示第一及び第二の罪を犯したことで負い目のある知恵遅れの被告人が迎合して供述したものではないかという疑問を生ずる。

なお、検面調書中、員面調書と同一内容の供述がなされている部分は、員面調書に基づいて被告人が検察官の面前においてもこれと同一内容の自白を反覆したことにより作成されたものであることを推認するに難くなく、やはり疑う余地がある。

(二) 犯行方法の供述訂正について

被告人の員面調書によると、被害者の右側から左手を伸ばして被害者の自転車の前篭に入れてあつたバックを盗つたことになつているが、検面調書によると、左側から右手を伸ばして盗つたとして被害届に符合する供述訂正がなされ、その理由として「警察の調べの際は間違つておばさんの右側から左手を伸ばして盗んだ様に左効きのものですから話してしまいましたので今申した様に訂正して下さい」となつている。

自転車によるひつたくりの場合、一般的に利き腕で物を盗るのか、ハンドルを保持するのかは別として、〈証拠〉によると、安達警部補は、被告人が被害者の右側から左手を伸ばして盗つたと供述したとき、被害届と違つていると言つてみたが、被告人は「間違いなく左手で盗つた。僕はぎつちよだ。」と言つて左利きに固執していたことが認められる。そこで、被告人がこのように利き腕に固執していたこと及び前説示のとおり警察官に迎合して犯行を認めた疑いがあることなどを考えると、右員面供述は体験を述べたというよりは、自分が盗るとすれば左利きだから左手で盗るだろうという被告人なりの推測を述べたとみても的外れではないと思われる。そうであれば、被告人の検察官に対する供述訂正は、自発的というより検察官がそうさせたのではないかという疑問を生ずる。

(三) 服装の供述について

被告人の員面及び検面調書によると、被告人の犯行時の服装は、紺色の長袖シャツ(胸の部分が紺と白の縞模様と赤い線が入つたもの)に赤色のジョギングパンツとなつているが、被害届によると、犯人の服装は、白半袖シャツに赤色のジョギングパンツであることが認められ、赤色のジョギングパンツという点では一致する。

しかし、そのパンツも、司法警察員作成の昭和五九年一〇月一日付写真撮影報告書添付の写真二葉によると、被告人の所持していた赤色のジョギングパンツには青色の縁どりがしてあることが認められるところ、藤田和子の員面調書によると、犯人の赤色のジョギングパンツには白い線が入つていたことが認められるから、結局被告人の服装についての供述は、被害者の目撃した犯人の服装と矛盾していることになる。

(四) 被害者の顔を記憶していたとする供述について

被告人の検面調書によると、被告人は、検察官が示した実況見分調書添付の写真の女性が被害者であると供述しているが、被告人の公判廷における供述によると、被告人がその写真の女性を被害者と覚えていたのは、警察官からこの写真の女性が被害者だと言つて見せられたからである旨述べている。これに対し、証人安達宏治は公判廷において、被告人に被害者の写真を見せたことはないと述べているので、以下被告人の員面調書に基づいて被告人が犯行に際し、被害者の顔を確認できる状態にあつたかどうか検討する。

員面調書によると、「江古田交番の前の踏切を渡りまつすぐ進んで行つたところ、前の方から来た自転車に乗つた三〜四〇歳のおばさんが私の方から見て左側の道に入つて行くのが見えたのですが、そのおばさんの自転車の前篭にバッグが入つているのが見え、それをひつたくつてやることに決めました。……すぐ追いかけて行き……おばさんの自転車の右側から左手を伸ばしておばさんの自転車の前篭に入つていたバッグをつかみ盗り、そのまま全速力でまつすぐ自転車を走らせて逃げました。おばさんは何か言つたと思いますが、夢中だつたのでよく憶えていません。また、後ろを見なかつたので追いかけて来たかどうかも分かりません。」というのである。右供述からすると、犯行の際は被害者の顔を見る余裕はなかつたと思われるし、また犯行後も見ていないとすると、被害者の顔を見る機会は「左側の道に入つて行く」までということになる。しかし、盗る決心をしたのは前篭にバッグが入つているのが見えたときで、それは左側の道に入つて行くときというようにとれるから、前方から自転車に乗つて来る被害者に気付いた段階ではまだ被害者を特段注意して見ていなかつたと思われる。それに被告人の視力は、生光会健康管理センター作成の一般健康診断個人票(以下単に「健康診断個人票」という)及び被告人の公判廷における供述によると、視力検査の都度違つてはいるが、おおむね右〇・五、左〇・一程度であり、メガネは、昭和五八年ころまでは掛けていたが何回か紛失したので、同五九年から使用していないことが認められるから、被告人の視力から考えても前方から来る被害者の顔まではよくわからなかつたとみるのが相当である。そうであれば、警察官から被害者だと言つて見せられていたので、検察官から示されたとき被害者とわかつたとする前記被告人の公判廷における供述は納得できるものがあり、その反面検面供述は疑問があるといわざるを得ない。

(五) 以上検討したところによると、被告人の自白は、重要な点において矛盾もしくは多くの疑問があるから、十分な信用性を認めることはできない。

三被害者藤田和子の目撃した犯人像と被告人との比較

〈証拠〉によると、藤田和子は、犯人が一見学生風で中肉に見えたので、年令、体形が似ている学生の息子と同じ標準身長の一七三センチ位はあると思つて被害届に犯人の身長一七三〜四センチ、中肉と記載したこと、しかし面通しで後ろ姿の被告人を見せられたとき、犯人にしては意外に小さいという印象を受けたので寺澤巡査部長に対し「意外に小柄だつたんですね」と印象を述べていること、同巡査部長も被害者の話しを聞いて被害者の目撃した犯人像と被告人は身長、体形が大分違つていると感じたことなどが認められる。なお、証人寺澤英明によると、被害者は「小柄だつたんですね」と答えてから「白いTシャツを着せれば似ています。間違いありません。」と言つた旨供述するが、証人藤田和子の供述によると、「似ているような似ていないようなはつきりわかりません。」と答えていることは認められるが、寺澤供述のようなことを述べた事実は認められないから、証人寺澤英明の供述部分は、証人藤田和子の右供述部分に照らし、にわかに信用することはできない。

以上認定した事実に被告人の健康診断個人票などをみると、被告人は、身長が一五四センチ、体重は四〇キロであり、一見して小柄で痩せ形であることが認められるから、藤田和子の目撃した犯人像と被告人とでは、その身長、体形だけから判断しても全く似ていないというべきである。

四被告人のアリバイについて

弁護人は、本件犯行の日時に被告人は友人の植竹進が当時勤めていた豊島区千早町一丁目二九番地所在の喫茶店ミッキーにいた旨主張し、証人植竹進及び被告人も公判廷において右主張に沿う供述をしているので、以下アリバイについて検討する。

〈証拠〉によると、被告人は、昭和五九年八月二一日植竹進が当時勤めていた喫茶店ミッキーに遊びに行き、午後六時過ぎ同店がスナックに替つてから、経営者に勧められて女装したところを、客が写真を撮つてくれて出来上つた写真を植竹に預けていたので、同月二四日右喫茶店に写真を貰いに行つたこと、午後六時少し過ぎに下里光夫、照山隆男、佐藤若菜が相次いで来店したので、植竹が店をスナックの従業員に引き継ぐのを待つて、五人で被告人の家(豊島区南長崎六丁目一二番三号三好ビル一階)の近くのラーメン屋にラーメンを食べに行つたことなどが認められる。

そこで被告人が八月二四日喫茶店ミッキーに来店した時刻がアリバイ成否にかかわるので、次にこの点を検討する。

被告人の公判廷における供述によると、被告人の勤める東京パン株式会社の退社時刻は、学校給食のない小、中学校の夏休み期間中は午後三時であり、被告人は八月二四日も午後三時に退社し、三時一五分ころ帰宅した。三時三〇分ころ家から喫茶店ミッキーヘ電話して「写真が出来ているか」と聞いたところ、植竹が「出来ているから取りに来い」と言つたので、四時ころ家を出て東長崎駅から椎名町駅まで電車に乗り同駅から歩いて四時二〇分か三〇分ころ同店に着いた旨述べ、証人植竹進の公判廷における供述も、植竹は、八月二四日午後店が暇だつたのでテレビでも見ようと思つて新聞のテレビ番組欄を見たところ、午後三時から久し振りに「三毛猫ホームズ」の再放映があつたので三時ころテレビをつけた。同番組が始まつて二、三〇分して被告人から電話がかかり「行つてもいいか」と言うので「暇だから来いや」と言うと、同番組が終りに近い四時三〇分ころ被告人が来店した旨述べている。また、証人大木信子の公判廷における供述によると、被告人が八月二四日会社から帰宅したのは午後三時一〇分を少し過ぎたころで、それから暫くして植竹に電話して「行つてもいいか」とかいろいろ話をしていた。当時信子はスナック勤めをしていた関係で、その日もいつものとおり四時に銭湯へ行き、四時四、五〇分ころ家に戻り、五時四〇分ころ店へ出掛けたが、銭湯から戻つたとき被告人はいなかつた旨述べている。

ところで、証人植竹進は、被告人が来店した時刻を特定するのにテレビ番組を基準にして供述しているが、テレビ番組は後に当時の新聞のテレビ番組欄を見れば知ることができるから、その時刻についての供述が信用できるといえるためには、現実にそのテレビを見たこととその前後の事情が証明されなければならない。しかるに植竹供述は、同期日の後のストーリーの尋問に対して供述があいまいである。したがつてテレビを基準にしてのアリバイ供述は信用性に乏しいといわざるを得ないのであるが、〈証拠〉を総合して考えると、被告人のアリバイが全く虚構であるとも断じ難いので、その成立の可能性を否定し去ることもまたできないというべきである。

五結論

以上検討したところによると、被告人の員面及び検面調書における各自白は、重要な事項について矛盾もしくは多くの疑問が存し十分な信用性を認めることはできないうえ、藤田和子の目撃した犯人像と被告人とではまるで似ていないこと、被告人のアリバイ主張を否定するに足りる証拠がないことなどを考慮すると、被告人が本件窃盗を犯したものであると認めることは困難である。そうして他に被告人の犯行であることを認めるに足りる証拠はないから、本件公訴事実は犯罪の証明がないことに帰し、刑事訴訟法三三六条により無罪の言渡しをする。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判官佐藤正雄)

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